風の彫刻家との出会い

稲田 紀男

 

当時の新宮晋との出会いを振り返る。

1992年、本社ビルとして「風の万華鏡」が竣工しました。

 

江戸時代末期、「救民」の旗印を掲げた「大塩平八郎の乱」で知られる大阪東町奉行所与力、大塩中斎は、私塾「洗心洞」で蜂起してから天神橋で鎮圧されるまで、大川右岸のこの辺りを駆け抜けていった。

 

この地は自立自営を掲げる当社の拠点にふさわしいと考え、風の彫刻家といわれる、新宮晋さんに、若い会社なので当社のアイデンティティ、シンボルとして、彫刻作品を創って欲しい。もし可能であるならば、建築も一緒に手がけて欲しいと、ダメもとでお願いしました。新宮さんは、面食らっていらっしゃいました。

 

歴史的な地域といっても、若くて青い中小の青年企業、土地の手配も十分に出来ず、表通りでない場所がやっと。

 

でも新宮さんは「企業の大小は関係ない。大企業でなくてもいい、ベンチャー企業でもいいし、なおかつロケーションはどうでもいい、むしろロケーションが悪ければ悪いほうが面白い。」と言われ、また、新宮さんが一番興味を示したのは、江戸時代の天満青物市場の跡地だという風土でした。

 

目の前は八軒家の跡、かつての大阪の玄関口の一つというガチャガチャした場所から世界に情報発信するのは痛快だ、とおっしゃっていました。

 

その想いは現在も「風の万華鏡」を通し、天満橋から世界へ向けてあらゆる情報が発信されています。

 

竣工から20年以上が経過した現在も「風の万華鏡」には世界中から見学者が訪れます。芸術家に評論家、財界人、新宮作品のファンの人たち──。

 

イタリアを代表する建築家、レンゾ・ピアノ氏は「本来は相反する芸術性と合理性が両立した、極めてまれな成功例だ。」と絶賛して頂きました。

 

他分野のアーティストが建築作品を手がけるというのは、当時の日本では極めて稀な試みでした。その世界の新宮晋の初めての建築作品が本ビルです。

 

そして、風の万華鏡は、作品と建築が一体となった独創的な建物になりました。

 

ベンチャー企業でも、著名な芸術家と手を結ぶことで、世界に通用するものが作れた。あきらめなければ必ず何かを成し遂げられるという、わが社の精神的なシンボルでもあります。

 

 稲田 紀男

建築主、株式会社ブレーンセンター代表取締役

 

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